天才軍師として知られている黒田官兵衛。
「水攻め」「中国大返し」など、戦国時代を動かした知略ばかりが注目されがちですが、実は“城づくりの名人”としても優れた才能を発揮していた人物です。
姫路城の改修をはじめ、大坂城の縄張り、中津城・福岡城といった黒田家ゆかりの城の築城、さらに広島城や高松城への助言まで、官兵衛が関わった城は多岐にわたります。しかも、その設計には“地形や水を活かす”“城と町を一体化させる”といった独自の発想があり、現在の城下町の原型づくりにも大きな影響を与えています。
この記事では、黒田官兵衛の築城術に焦点を当て、彼がどんな城をつくり、どんな戦略と考え方のもとで設計していたのかを、できるだけわかりやすくご紹介していきます。
黒田官兵衛とはどんな人物か — 軍師と築城家の二つの顔
黒田官兵衛(黒田孝高・如水)は、戦国時代から江戸初期にかけて活躍した武将であり、日本史上でも屈指の“知将”として知られています。1546年に播磨国で生まれ、若くして小寺家家臣団の中核として頭角を現し、後に織田・豊臣・徳川の三英傑と関わりながら、その才覚を発揮していきました。特に、羽柴秀吉(豊臣秀吉)に仕えて以降の活躍は目覚ましく、軍師としての大胆かつ冷静な戦略眼、城づくりにおける発想力、政治状況を読む洞察力など、多面的な才能を持った武将として歴史に名を残しています。
官兵衛が歴史上で重要視される理由の一つは、「戦わずして勝つ」ことを旨とする戦略的思考にあります。たとえば鳥取城攻めでは兵糧攻めで敵を追い詰め、豊臣秀吉が大勝した「備中高松城の水攻め」では、水利と地形を利用するという極めて合理的な戦術を提案しました。同時に、明智光秀が信長を討った本能寺の変直後には、毛利氏との早期講和を進言し、秀吉の「中国大返し」を実現させたことでも知られています。これは軍事的判断だけでなく、情勢分析力と決断力に裏付けられた名采配でした。
一方で官兵衛は、築城家としての能力も群を抜いていました。姫路城の改修、大坂城の縄張り、中津城の築城、そして晩年に手がけた福岡城など、その設計や助言に関わった城郭は多岐にわたります。特に中津城や福岡城のように、河川・海・低地を巧みに利用した「水城」の設計思想は、その後の城郭史にも影響を与えました。これは官兵衛が軍師として培った地形と兵力運用の知識が、築城にも応用された結果と言えます。
また、晩年はキリシタンとして信仰心を深め、茶道や文化活動にも力を入れるなど、教養ある武将としての側面も強く持っていました。さらに、息子の長政に家督を譲った後も、政治的影響力は保ち続け、九州に広がる新たな黒田家の基盤形成にも大きく関わっています。
このように、黒田官兵衛は単なる謀略家、軍師という枠では語り尽くせない存在です。戦略家・城郭設計者・行政官・文化人として多方面に才覚を発揮し、戦国時代を生き抜いた最も“知的な武将”の一人といえるでしょう。
戦国屈指の知将としての評価
黒田官兵衛が“名軍師”として評価されるのには、単なる戦術的な勝利だけではなく、時代を俯瞰する視野の広さと、合理的かつ戦略的な判断力があったからです。官兵衛の軍師としての特徴は、力任せの戦いを好まず、いかにして敵の弱点を突き、損害を最小限にして勝利するかに重点を置いていた点にあります。これは、同時代の軍師・竹中半兵衛と並び称される所以でもあります。
鳥取城攻めで行われた兵糧攻めは、その典型です。官兵衛は、補給が乏しい城郭に対し、無理な総攻撃ではなく、包囲して兵糧を断つことを秀吉に提案しました。時間はかかるが、味方の損害を最小限にし、結果を確実にするという戦い方です。戦場の勝利だけでなく、戦後の領地経営の見通しまで考慮する官兵衛らしい合理的発想でした。
また、備中高松城の戦いでは、城が低湿地に建てられている地形を逆手に取り、堤防を築いて城ごと水没させるという奇策を講じています。これは当時の常識を覆す発想力であり、地形情報の収集力、土木作業の迅速な組織力、そして実現させるための交渉力など、多方面の能力が問われる作戦でした。官兵衛はこれをわずか12日で実行してみせ、敵の戦意をくじくことに成功しました。
さらに、秀吉の天下取りに直結した「中国大返し」でも官兵衛の献策が語られています。本能寺の変の衝撃に対し、迅速な政治判断と軍の機動力を活用し、明智光秀を討つために迷いなく京へ向かうべきだと秀吉に進言。これにより、秀吉は天下取りの最重要局面で主導権を握ることができました。
官兵衛の知略は戦場だけにとどまらず、人心掌握にも優れていた点も見逃せません。家臣に対しては厳しくも公平で、能力を見抜き適材適所に配置しました。学問や宗教への理解も深く、キリスト教を信仰したことからもわかるように、固定観念に縛られない柔軟な思考の持ち主でした。
こうしたあらゆる要素が組み合わさり、官兵衛は単なる「軍師」以上の存在となります。戦国乱世におけるトップクラスの知将であり、戦略家としても政治家としても優れたバランス感覚を持つ希有な人物でした。
城づくりの才能が開花した背景
官兵衛を語るとき、軍師としての知略がクローズアップされがちですが、築城家としての才能もまた非常に高く評価されています。秀吉の命で手がけた姫路城の改修がその出発点であり、そこから実戦経験を経て、官兵衛の城郭設計力は大きく進化していきました。
官兵衛の築城術の特徴は、実戦経験を基礎にした「合理性」です。戦場を数多く経験する中で「攻めにくい城とは何か」「守りやすい配置とは何か」を実感として理解していたため、机上の空論ではなく現場に根ざした発想ができたのです。彼の城づくりは豪壮さよりも、堅牢さと地形の活用を重視していました。
実際、官兵衛が好んだ築城地は河口や海沿いのデルタ地帯、あるいは低湿地の平地など、自然の水利を利用しやすい場所でした。中津城や高松城のように「水を堀として利用する」という方式を積極的に採用し、敵の侵入経路を制限することで防御力を高めています。また、城下町の配置まで計算し、町全体を“外堀”として機能させる構造を設計した点は、後の近世城郭にも影響を与える先見性を持っていました。
こうした築城術が発揮される背景には、官兵衛の幅広い知識や経験があります。戦略家として地理と兵站に精通し、政治家として都市運営の重要性を理解し、文化人として美意識も持っていたため、城を単なる戦いの道具としてだけでなく、地域経営の核として捉えていたのです。
官兵衛はまた、若い家臣たちの育成にも熱心で、築城に関する技術者を育てる教育にも力を入れました。これはのちに黒田家が中津・福岡といった大規模な城下町を発展させる基盤となります。
築城家としての官兵衛は、華麗ではなく実用的で堅固な城を生み出す職人型の武将でした。地形を読み解き、限られた条件を最大限に生かすその姿勢は、当時の城郭専門家の中でも特に高く評価されています。
地形と水を用いた独自の築城術
官兵衛の築城術の最大の特徴は、「水」と「地形」を最大限に活かす点にあります。
中津城・高松城・広島城などを見れば明らかなように、彼が関与した城の多くは河川や海に面しており、自然の地形を主防御ラインとして取り込んだ設計が際立っています。
戦国時代、城の立地は山城から平山城へと移行していきますが、平城は守りが弱いという欠点がありました。そこで官兵衛は、水堀や海を利用することで平城の弱点を補い、防御力の高い都市型城郭を考案しています。
たとえば中津城では、中津川の河口部を利用し、堀に海水を引き込みました。潮の干満があるため、敵が堀に近づくタイミングを制限でき、自然現象を防衛に取り込む構造となっていました。また、低地である弱点を補うため、本丸を上下二段に分けて高低差を作り、敵が侵入した際に防御側が優位に立てる仕掛けを施しています。
備中高松城の水攻めは破壊的な戦術として有名ですが、実は「水を攻める側が使う」だけでなく「城を守る側が使う」形でも応用されています。高松城や広島城のように水域に囲まれた城は包囲が困難で、兵站も安定しているため、長期戦にも耐えられました。官兵衛はその優位性を理解し、秀吉政権の拠点となる城にも水城の設計思想を反映したと考えられます。
また、地形の活用にも優れ、天然の崖・河川・湿地を防御壁として利用し、人工的な施設の負担を減らす工夫をしています。
これは「最小の労力で最大の防御効果を得る」という官兵衛の合理主義が反映された部分です。
さらに、城下町の配置に関しても、水路を物流に利用しつつ防御機能も兼ねさせるなど、多重の目的を持たせる構造を好みました。
これは、ただ強固な城を作るだけではなく、領国経営・物流・行政を一体化させようとする戦略的都市計画の発想です。
官兵衛の築城術は派手さはないものの、実戦性と合理性において極めて高く、近世城郭の進化を先取りした先進的な技術といえます。
城下町と城を一体設計する都市計画家としての側面
黒田官兵衛は、現代で言えば“都市計画家”と呼ぶにふさわしい視点を持っていました。彼の築城の大きな特徴のひとつは、「城と城下町を一体の巨大防衛システムとして設計する」という点です。
戦国時代以前、城は山中や高地に築かれ、軍事拠点としての性格が強いものでした。しかし官兵衛が手がけた城郭は、戦国末期の新しい潮流「城下町中心の平城化」をさらに発展させた形となっています。
中津城では、三の丸・二の丸・本丸の配置を町の構造と連動させ、下級武士の住む武家地、商人が集まる商業地、寺社が配置された防衛ラインなどを段階的に整備しました。これにより、城下町そのものが“守りの層”として機能し、城への直接攻撃が難しくなるよう計算されていたのです。
さらには、防火や治水を兼ねた水路網を整備し、物流の効率化にも成功しています。官兵衛は城下町が経済的に成長することこそが領国を豊かにし、結果として軍事力の向上につながると理解していました。
福岡城においては、さらに大規模で体系的な都市設計が行われました。
入り江の地形を利用し、那珂川と博多湾を防衛ラインに組み込み、堀をめぐらせたことで、福岡城は海と陸からの侵攻を同時に防ぐ堅堡となりました。加えて、城下町の福岡と古くから栄えた商都・博多を機能分担させるという「双子都市構造」を完成させたことも特筆されます。
また、城内と城下町を結ぶ街道の整備、武家屋敷の配置、寺院を外郭の守りとして配置するなど、社会構造と防衛戦略を融合させた独自の都市計画は、近世全体の城下町形成のモデルのひとつともいえます。
官兵衛の都市設計思想は「城は領主の象徴ではなく、地域の発展の核である」という考えに基づいており、その合理性と先見性は後の福岡市の原型として現代にも残り続けています。
黒田官兵衛が手がけた主な城とその特徴
黒田官兵衛が直接築城、あるいは深く関わった城は多数ありますが、その中でも特に歴史的価値が高く、官兵衛の築城思想を色濃く反映した城を中心に紹介していきます。これらの城は単なる軍事拠点ではなく、官兵衛が重視した「戦略性」「合理性」「都市計画性」が見事に融合しており、近世城郭の発展に大きな影響を与えたものばかりです。
官兵衛が手がけた城は、総じて「自然の地形を最大限活用する」点が特徴です。海・川・低湿地・崖などを防御に組み込み、人工的な構造物の負担を最小限に抑えています。また、城下町の形成にも深く携わり、武家地 ・ 商家地 ・ 寺社が一体となった防衛システムを築き上げた点は、ただの軍師にとどまらない多才さを示しています。
以下では、官兵衛の築城術を象徴する5つの城――姫路城、大坂城、中津城、広島城、高松城、福岡城――について、それぞれの特徴を掘り下げて解説していきます。
姫路城 — 官兵衛が最初に手がけた改修の城
姫路城は現在「白鷺城」として世界遺産に登録され、日本を代表する城郭として知られていますが、その長い歴史の中で黒田官兵衛も深く関わっています。官兵衛が姫路城に携わったのは秀吉の播磨進出期で、姫路城が戦略拠点として重要度を増す時期でした。
当時の姫路城は現在のような大規模城郭ではなく、規模の小さな城でした。官兵衛は秀吉の命でこの城の改修に着手し、天守(当時は三重天守という記録がある)、堀、石垣、曲輪の整備を行ったとされています。この改修が、後に池田輝政による大規模改築の基盤となり、現在見る壮麗な城郭の原型ともいえる役割を果たしました。
特に秀吉による播磨支配の要地として、姫路城は毛利攻めの前線基地となりました。官兵衛はその軍略眼を活かし、攻めにも守りにも優れた城へと再構築したと考えられています。
また、姫路城は官兵衛が青年期を過ごし、城代として城主に近い立場で政治・軍事の経験を積んだ場所でもあります。その後の官兵衛の築城思想の原点は、この姫路での経験にあると言っても過言ではありません。実際、兵站の重要性、地形利用の工夫、城下町形成の発想など、官兵衛の築城術の基礎は姫路で培われたといえます。
現在の姫路城に直接官兵衛時代の建造物は残っていませんが、秀吉期の石垣や土塀などにその名残を見ることができます。姫路城は官兵衛の若き日の経験を象徴する城であり、彼の築城家としての第一歩を示す貴重な史跡です。
大坂城 — 縄張りを担当した巨大城郭
大坂城は豊臣政権の中心として築かれ、後に徳川幕府によって再建されるなど、日本史上最も重要な城郭の一つですが、その初期段階の縄張りを担当したのが官兵衛でした。
1583年、秀吉は大坂に巨大な平城の建設を開始し、その中心となる設計(縄張り)を官兵衛に命じます。城は大規模な堀と石垣を持ち、周辺の河川を取り込んで城下町ごと要塞化する壮大な構造でした。官兵衛は城だけでなく城下町も含めた広域設計に関わり、巨大な城郭ネットワークを築き上げたとされています。
当時の大坂城は、水運の中心地であった大坂平野の地形を巧みに利用し、天然の河川と人工の堀を組み合わせ、何重にも守りの層を形成していました。この構造はのちの江戸城にも通じる高度な設計思想で、官兵衛の築城家としての成熟した能力を示しています。
また、大坂城は秀吉の権力の象徴という側面が強いため、軍事だけでなく政治的な威圧感を持つ華やかな構造が求められました。黒漆塗りの外観や、豪華な黄金の茶室など、文化的要素が入り混じる設計も特徴的です。官兵衛は軍事と文化を両立させた城づくりにも関与しており、その幅広い才能が反映されています。
徳川期の再建によって地上の建造物はほぼすべて失われましたが、近年の発掘で秀吉期の大坂城の石垣が地下から多数発見されています。これらの遺構は官兵衛が築いた巨大城郭の証拠であり、その設計の壮大さを今に伝える重要な資料です。
大坂城は官兵衛の築城思想の集大成であり、軍師としての視点と都市計画家としての視点が見事に融合した傑作と言えるでしょう。
中津城 — 初めて全面的に築いた“水城”
中津城は黒田官兵衛が初めて全面的な築城を手がけた城であり、彼の築城術の到達点を示す代表的な城郭です。九州平定の功績により、1587年に豊前国6郡・12万石を与えられた官兵衛は、領国経営の中心となる城として中津城の築城に着手しました。
中津城の最大の特徴は「水城」である点です。中津川の河口部という特殊な地形を最大限に活かし、堀に海水を引き込むことで、海と川の双方から守られる独特の構造を形成しています。潮の満ち引きを利用するため、敵が容易に堀を渡れず、自然現象を防衛戦略に取り込んだ合理的な設計でした。
また、本丸は上段と下段に分けられ、敵が侵入してもさらに高所から攻撃できるように工夫されています。これは平城の弱点である「見晴らしの悪さ」や「防御の甘さ」を補うための工夫であり、官兵衛の実戦経験が反映された構造です。
城下町も官兵衛の設計により整備され、武家地・商人地・寺社地が防御ラインの一部として配置されました。つまり、城下町全体が中津城の“外郭”となっており、城を守るための社会構造が形成されていました。これは後に福岡城にも生かされる官兵衛の都市計画思想の原型であり、当時としては極めて先進的な発想でした。
現在の中津城天守は近代になって再建されたものですが、本丸石垣には黒田時代と細川時代の石垣が継がれた構造がはっきり残り、歴史的資料として非常に価値があります。また、城井鎮房暗殺事件の舞台になるなど、黒田家の歴史上重要な場面を多く生んだ城でもあります。
中津城は官兵衛の築城観が結実した城といえ、彼が何を重視し、どのような領国経営を志向したのかが最もよく現れた城郭です。
広島城・高松城 — 水運をおさえる要衝の設計協力
黒田官兵衛は広島城(毛利輝元)や讃岐高松城(生駒氏)の縄張りや築城にも助言し、水運と地形を活かした城づくりに大きな影響を与えました。
広島城は太田川デルタ地帯に築かれた大規模な平城で、城の周囲を流れる川が天然の堀として機能します。毛利家の本拠地として、政治・軍事・物流が集中するよう長期的な視点で設計されており、この構想に官兵衛が深く関与したと伝わっています。城下町を含めた巨大都市計画は、官兵衛の合理的な都市設計思想と非常に相性が良く、広島城の完成は官兵衛の優れた地形分析力を示すものとなりました。
一方、高松城は瀬戸内海に面する典型的な「海城」で、海水を引き込んだ堀によって守りを強化しています。高松城の特徴である海上交通の監視機能は、官兵衛の助言によって導入されたとされ、戦略的価値が非常に高い城でした。海城の利点を生かしたこの設計は、中津城にも通じるポイントであり、官兵衛が持つ“水利を読み解く力”が遺憾なく発揮されています。
いずれの城も、官兵衛が築城や軍略で重視した「兵站」「地形」「水運」の概念が反映されており、武将たちが官兵衛の助言を求めた理由がよくわかります。
福岡城 — 官兵衛と長政親子が築いた九州随一の巨城
福岡城は官兵衛と長政が親子で築き上げた大規模な城であり、九州最大の平山城として有名です。1601年から7年かけて築かれたこの城は、黒田家が筑前52万石の本拠地として栄えるための基盤となりました。
福岡城最大の特徴は「都市全体を巨大な防衛システムとして構築した点」にあります。入り江と那珂川の地形を利用し、城と城下町を海・川・堀で取り囲んだ構造は、防御力・経済力の双方を重視した官兵衛らしい合理的設計です。
城内は本丸・二の丸・三の丸・天守台が段階的に配置されており、敵が侵入しても本丸へ容易に近づけない構造となっています。また、47の櫓を持つ巨大城郭であり、規模・配置・防御のバランスが非常に優れています。
加藤清正が「自分の城は数日で落ちるが、福岡城は30〜40日は落ちない」と評したという逸話が残るほど、堅固さと実戦性に優れた城でした。
また、博多と福岡が双子都市として機能分担した点も重要です。博多は商業都市として発展し、福岡は武士の官庁都市として整備され、黒田家の領国経営の中核を担いました。
福岡城は城としてだけでなく、都市計画としても非常に価値の高い構築物であり、今日の福岡市の都市構造にも影響を与えていることがわかります。
まとめ
- 官兵衛の築城術は地形と水利を最大限に利用する点に特徴がある
- 城と城下町を一体化させる都市計画思想を持っていた
- 中津城と福岡城は官兵衛の築城思想が最もよく表れた城である
- 官兵衛は平城の弱点を水堀や潮の満ち引きで補強した
- 防御性と実用性を重視し、豪華さより合理性を優先した
- 秀吉の播磨支配での姫路城改修が築城家としての転機となった
- 大坂城の縄張りで広域戦略を踏まえた設計力を示した
- 広島城・高松城などでも水運を基軸にした助言を提供した
- 城下町の配置により「町そのものを防御壁」とする発想を実現した
- 官兵衛の築城は軍事・政治・経済を総合的に考慮した点が独自である
- 敵の侵入経路を限定させる構造を得意とした
- 本丸の高低差や曲輪配置などで平城でも堅固な防衛を可能にした
- 城造りにおいて土木技術・兵站知識を総合的に応用した
- 官兵衛の築城思想は息子・長政にも継承され福岡城で完成度を高めた
- 彼の築城は戦国後期の城郭進化に大きな影響を与えた




