葛飾北斎は30回も改名していた!最後の画号が「画狂老人卍」というとんでもない名前だった!

引っ越し93回!

改名30回!

伝説の浮世絵師葛飾北斎。彼の生涯はまさに波乱万丈。そんな葛飾北斎のエピソードの一つ。

【改名を生涯に30回】について今回は調べてみました!

すると面白いことが分かりました。

ぜひ、ご覧ください。


改名した理由はお金のため

葛飾北斎が改名を繰り返した理由はお金のためです。

30回以上改名したらしいですが、主な画号は6つです。

【春朗(しゅんろう)】【宗理(そうり)】【北斎(ほくさい)】【戴斗(たいと)】【為一(いいつ)】【卍(まんじ)】

改名の理由は、改名により画号を弟子に売ることになり、その報酬を生活費に充てていたそうです。

それぞれの名前の時代を観てみましょう

勝川春朗(かつかわしゅんろう)

勝川春朗期(1778~1794年)19歳~35歳

1778年、19歳のときに当時トップの浮世絵師「勝川春章(かつかわしゅんしょう)」に入門し、本格的に絵画の修行を始めます。

画像出典元:Japaaan

入門してすぐに「勝川春朗」の画号をもらい、翌年にデビューします。

師匠には早くから実力を認めてもらい、黄表紙の挿絵や、錦絵(多色刷の浮世絵版画)、洒落本、春画の挿絵、肉質美人画も経験しました。

20歳前後に、最初の妻と結婚。一男「富之助」、二女「お美与」、「お辰」を授かります。

しかし北斎は画壇での地位も人気も収入も二流止まり。さらに兄弟子の「春好」(しゅんこう)からは絵を下手だと罵倒され、目の前で破られるなどかなりのパワーハラスメントを受けて耐える毎日だったそうです。

「自分の画法が進歩したのは、実に春好が自分を辱めたことにはじまる」と語っています。かなり前向きですね。

【宗理(そうり)】

俵屋宗理期(1795~1798年)36歳~39歳

1795年に琳派(りんは)に加わり「俵屋宗理」を襲名しました。

琳派というのは尾形光琳や俵屋宗達を祖とする画派のこと。
宗理は顔が細くすらりとした美人「宗理美人」を完成させています。

この時代「狂歌絵本」が流行りだし宗理も手掛けるように。
狂歌絵本とは社会を風刺、皮肉を込めた短歌と挿絵の本のことです。
それまでの洒落本に変わるものでした。

画像出典元:Amazon

宗理は人気があったのですが経済的には苦しく「七味唐辛子売り」など副業を始めます。
しかしそれでもお金がなかったため門人である宗二に宗理の画号を売ることに。

これ以降お金に困ると画号を弟子に売りつけていったと言われています。

宗理時代はわずか4年でした。
またこの時代に最初の奥さんが亡くなっています。

【北斎(ほくさい)】

北斎宗理期(1798~1809年)39歳~50歳

五月のぼりに中国の魔よけの神を描くことで大金を得て志を一転します。
このとき得た金額は現在の価値で言うと約16万円ほどでした。

ここから宗派に属さず画工を貫くことを誓っています。

この時代に後妻である「こと」と結婚し、一男「多吉郎」と一女「お栄」を授かりました。

1804年には「二美人図」を発表します。

画像出典元:しずおか文化財ナビ

これはのちに重要文化財となる作品となるもの。

またパフォーマンスアートも始めます。
画面の大きさなどにとらわれずいろいろな工夫を凝らしたことで、江戸中でも有名に。
そして1805年(文化2年)に葛飾北斎の号を用いるようになりました。

【戴斗(たいと)】

北斎戴斗期(1810年~1819年)51歳~60歳

この時代には弟子が約200人!

その数に対応しきれなくなった北斎戴斗は絵の描き方を習う本や「北斎漫画」の制作に力を入れるようになりました。

画像出典元:太田記念美術館

北斎漫画の版画絵は1814年に初版が出版され5年間で10作が制作されています。

これは海外でも大ベストセラーとなりました。
「ホクサイスケッチ」という名前でジャポニズム旋風が巻き起こります。

【為一(いいつ)】

北斎為一期(1820年~1834年)61歳~74歳

ちょうど還暦を迎えると心機一転「為一」に改名します。

出戻った後妻との娘であるお栄とともに川柳「柳多留」に参加し、一緒に絵を描くようになります。

1826年にはシーボルトやオランダの商館長からの依頼を受け絵画を制作します。
しかし翌年の1827年には自身が脳卒中になってしまいます。
なんとか回復しますが今度は1828年に後妻の「こと」が亡くなってしまいました

この悲しみから逃れるように制作に取り掛かり、1831年にはあの「富嶽三十六景」を発表。その後に追加を加え全部で四十六景になりました。

画像出典元:This is media

【画狂老人卍(まんじ)】

卍(まんじ)期(1834年~1849年)75歳~90歳

天保の大飢饉が1833年~1837年に起きたことで江戸でも餓死する人が多かったですが、北斎は絵草紙屋に肉筆画帳を置いてもらうことによって餓死から逃れています。

私生活では最初の妻の子お美与が産んだ長男(北斎の孫)の借金取りに追われ悩んでいました。
親戚を頼って現在の神奈川県に隠れますが、その後江戸に戻った1839年に火事に巻き込まれます
画図などもその火事によってすべて焼失しています。

その後再度脳卒中になるも驚異の回復を見せ1849年「富士越龍図」を描きました。

画像出典元:北斎館

しかしそれから数か月後の4月18日には永眠

貧乏だった北斎ですが葬儀はまわりの人たちがお金を出し合って立派に行われたそうです。

改名したことによる影響は?

お金に困ると弟子に名前を売りつけていたようですが、
中には「初心を忘れないため」という考えがあったのではという人もいました。
物は言いようですね。

【葛飾北斎】はいつの名前?

葛飾北斎の名前は1805年~1809年の5年間です。
短い期間なのに葛飾北斎と呼ばれることが多いのは、
北斎為一や北斎戴斗など「北斎」をつけることが多く、それに対応する名字が葛飾しかなかったという消去法と言われています。

世間の声

70歳を超えてから卍や画狂老人卍などと名乗るとはもはやキラキラネームのレベルではない

米屋が請求に来ると絵の邪魔をされたくないため「給料が丸々入った茶封筒をそのまま渡していた」らしい、だから売れっ子なのにずーっと貧乏!

まとめ

葛飾北斎はずいぶんな変わり者だったようですね。
お金に困ると弟子に名前を売っていくのに支払いは超どんぶり勘定でした。
引っ越しが多いのもゴミ捨てなどせずに「汚くなるから」や借金取りから逃げる「夜逃げ」だったよう。
それだけ図太く生きることが90歳まで長生きできる秘訣だったのかもしれません。
やはり芸術家というのは凡人の理解の遥か斜め上をいっていますね!

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